「父さん」
　かけられた声に、男は思わず素振りの手を止めた。……聞きなれた声だ。とても聞きなれた声だった。それなのに、一瞬誰だかわからなかった。
「……イシトか」
　平静を装い、男は振り向く。
　引き戸の手前に佇んでいたのは、間違いなく彼の末の息子だった。それが彼には逆に奇妙なことに思えた。……あんな弾んだ声を出すイシトなど、自分は知らない。
「ねえ父さん、これなーんだ」
　年齢の割に、イシトは聡い。しかしその鋭さを珍しく微塵も感じさせずにイシトはいたずらっぽく笑うと、手の中の封筒を示してみせた。すこぶる上機嫌、いや子供の顔だ。……おかげで男はますます混乱した。
　眉間に皺をよせたまま、仕方なく封筒を受け取る。そしてその皺はますます深くなった。
「これは…！」
「あれ、開けなくてもわかるの？　ひょっとして行ったことあるとか？」
「……いや」
　間髪を入れず飛んできた息子の問いに答えを濁し、男は封を開ける。…白いカードに呪文のような言葉。一応文面に目は通したが、細かい内容など大した問題ではなかった。
「お前宛か」
「もちろん。三人の誰かなわけないだろ。……確実な情報かどうかはわからないけど、全寮制で学科は四つ。学費は原則無料。年齢上限は二十六歳、つまりそれまでに卒業できなかったら退学ってわけだね」
　……よくしゃべるな。男はぼんやりとそう思った。正直、息子が一生懸命まくしたてる台詞は頭に入ってこなかった。……よくしゃべる。普段は三人の兄から遠ざかるように息を潜めて暮らしているイシトが。
「…自分で調べたのか」
「そうだよ」
　男は今度は思わず声をあげそうになった。……自分で調べた。あのイシトが、自分から興味を持って！　
「そういうわけなんで、進学はお預けかな。払い込んじゃった受験料は僕が返すから請求してね」
「……イシト」
「あ、ハイスクールはどうなるのかなあ。単位取れてる筈だから卒業させてくれると思うんだけど」
「イシト」
　ややきつめに再度呼ぶと、イシトはようやく声を潜めた。
「反対するの……？」
「……」
「たしかに興味本位なことは否定しないけど、でも全く何も考えずに決めたわけじゃないよ。そこまで馬鹿じゃないし、それに……」
　息子の言い訳を遮るように、男は静かに首を振る。…正直賛成はできない。しかしそれ以上に反対もできない。あの子供のような顔を見たら。上ずったこの声を聞いたなら。
　代わりに彼はこう言った。
「三人には言ったのか？」
「まさか、言うわけないだろ」
「ソフィアには」
　答えは返ってこなかった。
「三人には後で話しておこう。だから母さんには自分で電話をしなさい」
「面倒だなあ…父さん一緒にしておいてよ」
「イシト」
　たしなめるように男は名前を呼ぶが、少年はあいまいな笑顔を浮かべただけだった。…あれでは電話などかけないだろう。
「えっと、僕準備するから。今日の夕飯何？」
「炒飯だ」
「いいねえ。烏龍茶はポットでよろしく」
　話題をそらし、イシトはそそくさと踵を返す。思わず男はその背中を呼び止めた。
「イシト」
「何……？」
　聞こえないふりはせずに、それでも苦笑交じりにイシトは振り向く。
　何を言うべきか。男に、かける言葉はあるはずも無かった。だがしかし、ただ黙って見送ることができるほど、男は息子に十分な言葉をかけてきたわけでもなかった。
　だから男は、黙ったまま腕を目の前に差し出した。
「えっと…？」
「持って行け」
「え？」
「お前にやろう。持って行け」
　男の手の中では、磨き込まれたユスの木刀が鈍く光っている。
「やろうって言われても…いらないよ。剣はやらないし、第一父さん自分のがなくなるじゃないか」
「いいから持って行け。いつか…」
　男はそのまま口をつぐんだ。じっと息子の目を見据える。…母譲りの、翠玉の瞳。その淀んだ光の向こうに眠る、強いきらめきを覗くように。
「…わかったよ」
　そうため息混じりにイシトが頷くのに、さほど時間はかからなかった。
「いただいておくよ。でもお金に困ったら売りとばすからね」
「取っておけ。どうせ金にはならん」
「そうだろうなあ」
　そうぼやきつつ、イシトは丁寧な手つきで木刀を受け取った。
「ああ、そうだ。……ねえ父さん」
「ん…？」
　イシトは顔を上げた。そして小首をかしげ、にやりと小ざかしい笑みを浮かべてみせた。
「やっぱり、夕飯いらないや」
　そう言うなり、答えを待たずに踵を返す。そして振り向かずに引き戸の向こうへ消えていった。……追っても、その姿を見ることはないだろう。
　何事もなかったかのようにその場は静まり返る。裸足で踏みしめる畳の冷たさも、い草と汗の匂いも元のままだ。ただしかし、木刀を失った自身の腕がやけに軽く思えた。
「…いつか」
　男はつぶやく。……おとなしいイシト。賢いイシト。猛りもむせび泣きもせず、静かに笑うイシト。その牙を封じ込めるように、剣を捨てたイシト。……いつか、いつか。

　……いつか、その暗き衝動を、誰かに叩きつけたくなる日がくる。

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